七福神ウォーキング【東京都】

2020年はウォーキングで運を動かす!

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武蔵野界隈の七福神をめぐるウォーキングイベント

吉祥寺スタートしてぐるっとウォーキングで七福神をめぐる約10Kmのウォーキング。

その適度な距離と達成を味わえる開運コースを、楽しく歩きましょう!

武蔵野八幡宮ー安養寺ー大法禅寺ー延命寺ー杵築大社ー井の頭弁財とめぐります。

東京住みたい町ランキングNO1を何回も獲得した街「吉祥寺」。

若者と地元の人たちの文化が絶妙なバランスが保たれており、流行と伝統がマッチングし独特な雰囲気を持つ街でもある。

吉祥寺で初詣といえば、「武蔵野八幡宮」。武蔵野周辺と御利益。そんな七福神巡りをTOKINOが企画しました。

日  程 2020年1月30日(土)大安
場  所 東京都(吉祥寺)
コース 吉祥寺ー武蔵野八幡宮ー安養寺ー大法禅寺ー延命寺ー杵築大社ー井の頭弁財ー吉祥寺
主  催/企  画 株式会社トキノカンパニー
参加費 4,400円(税抜)
定員/最少催行 21名/10名

武蔵野八幡宮で大黒様をお参り

<p>吉祥寺の氏神様として有名な「八幡宮」。</p>
<p>789年に坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀ったと伝えられる。<br />明暦の大火で小石川水道橋外吉祥寺は今の駒込に移り、火事で住居を無くした門前町の人々は移住を命じられて、この地に吉祥寺村を開村した際に武蔵野八幡宮を鎮守として信仰したといわれている。<br />弓矢の神様としても名高い、応神天皇を祀る。境内は約1300坪の広さで、ケヤキやクスノキなどの大木が繁華街とは思えない静かで荘厳な佇まいを見せる。</p>
<p>八幡様以外に、拝殿右手前の境内社に三島・出雲・大鳥・厳島・稲荷・須賀・疱瘡の七社が祭られている。</p>

吉祥寺の氏神様として有名な「八幡宮」。

789年に坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀ったと伝えられる。
明暦の大火で小石川水道橋外吉祥寺は今の駒込に移り、火事で住居を無くした門前町の人々は移住を命じられて、この地に吉祥寺村を開村した際に武蔵野八幡宮を鎮守として信仰したといわれている。
弓矢の神様としても名高い、応神天皇を祀る。境内は約1300坪の広さで、ケヤキやクスノキなどの大木が繁華街とは思えない静かで荘厳な佇まいを見せる。

八幡様以外に、拝殿右手前の境内社に三島・出雲・大鳥・厳島・稲荷・須賀・疱瘡の七社が祭られている。

延命寺では養老人・羅生門天様を!

<p>延命寺の開基は長智法印、開山は長恵法印で、関前村開村当時の寛文10年(1670)とされる。</p>
<p>開村にあたり、関前村開発名主の協力を得て、本堂、庫裏、大師堂、神仏習合のもと鎮守八幡神社が造立された。八幡山の山号により関前村のこの地域の小字は八幡附と付けられ、これが昭和37年(1962)町名整理の際に武蔵野市八幡町の町名の由来となった。明治維新の神仏分離令により、延命寺と関前八幡神社に分離されている。長恵時代の遺宝「護摩炉(市有形文化財)」や</p>
<p>恵心作と伝えられる秘仏薬師如来などを祀り長恵時代の遺宝が数多く残っている。入口には亜形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士像が睨み、境内には毘沙門天、寿老人の石造や平和観音像などが祀られている。</p>

延命寺の開基は長智法印、開山は長恵法印で、関前村開村当時の寛文10年(1670)とされる。

開村にあたり、関前村開発名主の協力を得て、本堂、庫裏、大師堂、神仏習合のもと鎮守八幡神社が造立された。八幡山の山号により関前村のこの地域の小字は八幡附と付けられ、これが昭和37年(1962)町名整理の際に武蔵野市八幡町の町名の由来となった。明治維新の神仏分離令により、延命寺と関前八幡神社に分離されている。長恵時代の遺宝「護摩炉(市有形文化財)」や

恵心作と伝えられる秘仏薬師如来などを祀り長恵時代の遺宝が数多く残っている。入口には亜形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士像が睨み、境内には毘沙門天、寿老人の石造や平和観音像などが祀られている。

最後は井の頭弁財で弁財天様にお参り

<p>井の頭弁財天は、天慶年間(938-946)に関東源氏の祖・源経基が伝教大師の延暦8年(789)作という弁財天女像をこの地に安置したのが始まりで、その後建久8年(1197)に源頼朝が東国の平安を祈願して宮社を建立したとされている。また、正慶2年(1333)には新田義貞が鎌倉北条氏と対陣する際に戦勝祈願を行なったとも伝えられている。</p>
<p>江戸時代に入り、徳川家康は江戸入府に際して上水道の整備を行なうが、その際の水源として選ばれたのが井の頭池であり、その上水路が神田川である。</p>
<p>家康自身も何度かこの地を訪れたとされ、慶長11年(1606)に家康が井の頭池の水でお茶をたて、その時に使用したとされる茶臼は今も弁天堂に伝えられている。</p>
<p>三代将軍家光の代になるとこのあたりは鷹狩り場とされ、寛永6年(1629)に家光が訪れた際に、この池の水は江戸の飲料水の源・上水の頭であることから「井の頭」と命名し、池のほとりのこぶしの木に小刀で井の頭と刻んだと伝えられている。</p>

井の頭弁財天は、天慶年間(938-946)に関東源氏の祖・源経基が伝教大師の延暦8年(789)作という弁財天女像をこの地に安置したのが始まりで、その後建久8年(1197)に源頼朝が東国の平安を祈願して宮社を建立したとされている。また、正慶2年(1333)には新田義貞が鎌倉北条氏と対陣する際に戦勝祈願を行なったとも伝えられている。

江戸時代に入り、徳川家康は江戸入府に際して上水道の整備を行なうが、その際の水源として選ばれたのが井の頭池であり、その上水路が神田川である。

家康自身も何度かこの地を訪れたとされ、慶長11年(1606)に家康が井の頭池の水でお茶をたて、その時に使用したとされる茶臼は今も弁天堂に伝えられている。

三代将軍家光の代になるとこのあたりは鷹狩り場とされ、寛永6年(1629)に家光が訪れた際に、この池の水は江戸の飲料水の源・上水の頭であることから「井の頭」と命名し、池のほとりのこぶしの木に小刀で井の頭と刻んだと伝えられている。